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小江戸タウン、水の町佐原【2022夏休み企画#6 佐原→銚子 下総編-3】

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鹿島神宮を出て、佐原に11時44分ごろに到着しました。時間帯によって異なりますが、日中の佐原駅は銚子行きが概ね毎時12分前後に出発する時刻表になっているので、最低でも30分待つことになります。この際ですから、伊能忠敬で有名な佐原の街を見に行きましょう。

 

2022夏休み企画サイトマップ

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何も下調べをせずに来たので地図を見てもよく分かりませんでした。

 

佐原は水運で栄えた江戸時代からの商家町で、小野川沿いや香取街道沿いに昔ながらの街並みが残っています。忠敬橋を中心に十字に広がっているオレンジの部分が重要伝統的建造物群保存地区で、黄色の部分が景観形成地区となっております。前者が国(文化財保護法)によって指定された保存地区で市町村の保存・活用の取組みに対し指導・助言・補助金が入ることがあり、後者が香取市条例によって指定された前者を含む保存地区です。

 

佐原駅から街の中心部までは15分から20分程度歩くことになります。

 

中心部まで来るとどこからともなく地元のおじさん(おじいさん?)がやってきて、話しているうちに佐原に2時間半もいてしまう結果となりました。何かラミネートカードを持っていたので、この辺のNPOかボランティアか何かの方で観光案内をしているということなんでしょうか。この記事はほとんどそのおじさんの受け売りになります。

 

このような出来事は、以前沖縄県の嘉数(普天間基地がよく見える公園で、沖縄戦の遺構が残る)で地元のおじさん2人組に話しかけられたことがありましたが、それ以来です。複数人で旅行をしていると話しかけられやすいですよね。

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佐原は関東で最初の重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)です。次いで川越が指定され、北関東の残り4件、四万温泉と同じ自治体の養蚕農村で有名な群馬県中之条町の赤岩地区、筑波山の北側にある江戸時代からの街並みで有名な茨城県桜川市真壁、日光街道沿いで栄えた栃木県栃木、絹織物業で発展した群馬県桐生が順に指定されていきました。

 

川越は東武東上線やFライナーというものがありまして、東京からでも簡単にアクセスが利くようなところであります。来春には新横浜や相鉄線方面からのアクセスも利くようになるそうです。

 

東京駅から佐原まではバスで1時間半、電車で2時間前後で、川越までは1時間(池袋から30分程度)です。東上線沿線にも人はいますから、そりゃ川越混みますよ。それに比べて佐原は落ち着いていていいですね。

 

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昔の小野川はもっと広くて、そのまま荷卸しができる構造でしたが、明治だか大正時代になって電線や車道を通すために小野川沿いに広い道が整備されました。広い運河は、それだけ船が行き交っていたということです。

 

従来の東廻航路は、蒸気船なんかない帆船の時代でしたから、三陸方面からやってきた船が銚子や房総半島を回って一旦下田に入り、風待ちをして東京湾を目指すという後悔をしていました。しかし、江戸時代に水害対策、新田開発のために隅田川、荒川、渡良瀬川利根川、鬼怒川周辺の川の流れを大幅に変更して利根川野田回りのルートを開削することに成功しました。

 

従来の下田回りでは1年4季節あるうちの1季節しかこのルートは有効ではなかったのですが、利根川が開削されたことにより、1年4季節あるうちの3季節は江戸まで物を運ぶことができるようになりました。陸上では馬や人出などの問題があって大量輸送は水運に委ねられていた時代、これは大改革だったと言えるでしょう。

 

ちなみに印旛沼は昔は香取海の一部で、海退に伴い利根川水系の沼になったわけですが、江戸時代印旛沼の開発は失敗し、花見川(検見川)と繋がる印旛放水路を完成させるのは、昭和44年(1966年)まで待つこととなりました。

 

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小野川を越える橋は昔は香取街道の忠敬橋しかなかったのですが、かつて小野川西岸に農業用の用水路の一部として作られた樋橋(とよはし)も伊能忠敬家旧宅から西岸の伊能忠敬記念館方面に抜ける道として有効活用されています。私は伊能忠敬記念館には行きませんでしたが、後から色々調べて記事に書き起こしています。

 

現在は、このような形で、伊能忠敬家旧宅方面から来た水を使っていると思いますが、観光用に30分に一回放水をしています。環境庁によって残したい日本の音風景100選にも選ばれました。インスタ映えしそうですね。

 

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物流の中心で栄えた佐原も、昔は全国から人が訪れて定住していって栄えた街です。多い時で村民は3割、流入民が7割と言った具合でした。江戸が地方から多くの人を集めたことは知られていますが、佐原も江戸に入る前の中継地点であったので流入民が多かったということなのでしょう。

 

伊能家もルーツは豊後だったり日向だったり大和だったりいろんな説があるようですが、流入民の1人だったようです。まあ今はここにいる伊能の末裔も佐原に帰化していてすっかり香取市民だと思いますが。

 

忠敬自身は下総に育ち、婿養子で佐原の伊能家を次いで伊能家を大きくしたそうです。伊能忠敬は元々は農民、名主さんで、佐原周辺の小作人たちを取り仕切って幕府に年貢を納める仕事をする傍ら、商人として小野川に面した広い間口の家や倉を所有し、取引で事業を大きくしたことで有名です。1791年、忠敬が46歳の時に書かれた家訓書は、江戸時代の人々の生き様を示す貴重な資料です。忠敬旧宅の中にも家訓書の案内があります。

 

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忠敬は49歳で家督を譲って隠居し、そこから江戸に行って天文学を学び、日本を測量し正確な日本地図を作るために全国を行脚します。それ以前は行基図というお団子が60~70個ぐらい連なったような日本地図しかありませんでしたが、彼の正確な歩幅と天文学的観測によって幕府を驚かせました。江戸時代後期には地球が丸いことが知れ渡っていたので、忠敬は測量の傍ら地球の大きさを求めてその外周を39960kmと、非常に高精度な値を叩き出しました。

 

57歳の時に蝦夷地測量の功績によって名字帯刀を許されました。以前の「伊能」姓は佐原領内でしか意味のない、領外での公称ができないものでしたが、幕吏に登用されて公的に認められるまでになりました。最終的には武士になったということなんですね。現在では、伊能忠敬は、第二の人生を歩んだ偉人の象徴として小学校の歴史の教科書に載り、新しいことへの挑戦に年齢は関係ないということ、超高齢化社会において重要な教訓を私たちに与えてくれます。

 

神奈川県、特に横浜市歴史教育に熱心らしく、市立学校の行事では必ず国家や校歌と共に横浜市歌を斉唱し、小学校用副読本「わたしたちの横浜」であったり、吉田新田の話(リンクはたまたま見つけたお三の宮伝説の映像化作品)を小学校でしていたり、明治以後に急速に発展した新都市にしては珍しくかなり愛郷心を推しているような気がします。なかなかないですよこういう都市は。

 

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豊橋ではありません。樋橋です。樋は普通「とい」と読むはずですが、人やお店、地域によって「とゆ」「とよ」と読むらしいです。ヤ行ならなんでもいいんでしょうか(「とい」もToyiと思えばヤ行)。

 

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小野川、まさかの一級河川でビビりました。大雨の時にこの川の氾濫に住民は悩まされたそうで、佐原の街を避けるように小野川放水路という別のルートが設定されています。この川紛らわしいのが、茨城県西部にも利根川の支流(霞ヶ浦に注ぐ)で一級河川の小野川がありますが、関係はありません。

 

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佐原町並み交流館川崎銀行佐原支店の建物がそのまま残っていて、朝ドラのロケ地にでもありそうな感じの雰囲気でした。

 

川越も佐原も共通しているのはどちらもお祭りがあることです。夏と秋にお祭りがあり、どちらも大きな山車で有名です。交流館内には、山車の模型の展示がありました。川越は夏は花火大会があるようです。佐原に花火大会はないですが、近くの小見川というところで花火大会をやっているようです。佐原であれば、川越ほど外から人が押し寄せることはなくちょうどいい盛り上がりになるでしょうね。

 

ワンマン列車VS自転車

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さあ、思いのほか充実した佐原での時間を楽しみつつ、第4目的地の銚子へ向かいます。

普通銚子行き 佐原1412→銚子1457

 

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千葉地区には、今は成田線の成田から松岸までは定期運用の特急はありませんが、かつては特急あやめや特急すいごうという列車が佐原以東普通列車として通っていたのでした。現在は臨時列車以外では特急は廃止となり、代わりにたまにB.B.BASEという列車が千葉地区を走っています。

 

途中駅で小学生くらいの人間が自転車を私の乗っている車両に乗せてしまって降ろさせているのを見ました。運転手と車掌が駆けつけましたが、彼は事情を知って降りて行ったようです。

 

サイクルトレインの取り組みはJRの中ではかなり珍しい存在で、現在JR東日本では輪行袋を使用しない輪行はB.B.BASEに乗車した場合と、専用のWebサイトで登録して指定の駅で乗り降りする場合のみ水郡線に乗車した場合の二つの場合にのみ輪行袋を使用しない持ち込みが許されています。

 

その他、私が出雲旅行の折に一畑電車で見たような、ローカル私鉄線では輪行が認められているようでしたが、この電車は209系でもB.B.BASEではないので、輪行袋を使用しない輪行はできません。列車の運行の安全のためには意地でも引きずり下ろす他にないわけです。

 

私も一畑電車で見た時は最初びっくりしました。列車の中に自転車があるという違和感に。でも、その出来事を3ヶ月前に経験した身としては衝撃が少なかったものです。一瞬「銚子も出雲と同じ栄え具合だし、サイクルトレインくらいあってもおかしくないよな」という思想がよぎってしまったものです。まあ東京から一本の列車で行ける可能性のあるところにサイクルトレインはないですよね。いずっぱこ駿豆線は数少ない例外ですが、その程度です。やはりいかんことはいかんことですからね。

 

成田線沿線はサイクルにも向いていると思いますからこういう取り組みもあると思いますが、その弊害もこの目で見ることができました。

 

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さて、列車はこの松岸で佐倉で分かれた総武本線と合流し、銚子に着きました。時刻はもう15時になろうとしています。