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人に興味がないのか、成人の日

幽霊や妖怪は「恨めしや」などと言って人の前に現れるそうですが、人に興味のない奴はそもそも現れようとしません。私はコロナのひどい感染状況によりとある飲み会が取り消しになったことに幻滅して、成人式の参加を取り止めました。

 

昔から「冠婚葬祭」の一つに数えられ、大事な人生の節目とされましたが、現在は人生は多様化しており、市区町村主催のはたちの集いには出席しないという選択をされている方も多くいます。一生に一度の思い出の場を、1日の心変わりで取り消したわけです。その理由はコロナとめんどくささなので、出ようと思えば出られたし、登録までして前日まで出るつもりでいたのですが、その理由を自覚して成人式のデメリットが堰を切ったように連想され、私にははたちの集いに出るメリットがまるでなく、極論、出てもデメリットしかないと感じたのでありました。

 

 

成人式に中身なんかねえよ

そのデメリットというのが、まず成人式は何があるか分からなくて、とても魅力を感じることができないというものです。封建制度の時代の元服みたいに特定の儀礼があるもんじゃないし、何するかといえば市区町村長のお気持ち表明と選挙の投票奨励運動だけで、終わったら順路に沿って返されるわけです*1。こんなもん工場の流れ作業と一緒なわけですよ。私は製品かと。

 

そのくせ意味もなく*2晴れ着とかいう普段着ない非機能的な格好してるし、ドレスコードもなく服装自由なくせに誰一人として私服で来ません。おまけに、自己顕示欲がいかれている人が暴れ回るだけのイベントじゃないですか。その上に飲み会や遊びがセットになっていて、感染症のリスクがあって、どう考えても三密がバグりそうなイベントなんですよね。正味このイベントに全く価値はありません*3

 

私は既に単独旅行*4や三元DX計画(大学生になったらできるクレジットカードの契約やネット上の商取引)、バイトなどの、実態の伴った大学生中のさまざまな新しい経験により大人になっているのだという自覚を得てきましたし、そんなのに行かなくても成人になる、というか、民法改正により既に大人になってるわけです。

 

成人式に友達なんかいねえよ

もう一つが、私は基本的に友達がいないんですね。これは私の友達の定義が狭いというのもそうなんですが、広めの定義にしてもそんなにいないんですよ。私は変人でして、昔から友達ができないがまとわりついており、人間関係の構築が絶望的に下手でありました。中学までは対人関係がうまく行かなくてトラブルや嫌な思いをした・させたことは数知れず。誰かと、または外に出て遊ぶ機会は今まで数回の例外を除いて全くなく、部活も当然入っていないので、登下校は1人で家と学校を往復するのみでした(ルートは一つではありませんが)。学校以外の習い事や通った施設でできた友達はその施設限りで、施設の友達と施設外での交流が続くことは全くありませんでした。ただし、生きていくために施設内での社会的交流と、最低限の電話と雑談スキルは兼ね備えてあるつもりであります。しかし、それを友達とみなすかと言えば少し認め難いところがあります。

 

これが何を意味するかというと、同じ小中学校で育った交流が全くないということで、小中学校の友人からの飲みや同窓会の誘いを全く受けないということであります。現代の小中学生はスマートフォンなどを使いこなして身近な人や、人によっては既に世界中の人とコミュニケーションをとっているわけですが、そんなツールはありません。私はLINEデビューが中学の終わり頃だったので、繋がりがありませんでした。今思えば、その分面倒なしがらみがなくて良かったと言えます。

 

そして飲みや同窓会の集いは感染が再び広がっている中まさにキャンセルされるべき行為そのものであり、そんな機会は偶然鉢合わせることになっても逃げるべきです。これで変な人に鉢合って宗教に入信させられたらどうするんですか。新横はトラウマなんですよ。いや、その前にデメリットが透いて見えて行きたくない気持ちのもと参加したら発狂しそうな気しかしません。

 

人に興味がなさすぎるんだよ

今回の成人式の不参加を持って、幼少期の過去の因縁に完全に決着をつけることができました。さてここで質問です。私はそもそも人との関わり方を知らないから友達がいないのでしょうか?

 

昔は、私は自分が人との関わり方を知らないから友達ができないと思っていました。でもそれは違うんじゃないかと思っているんですね。私は学校や習い事、いくつかの施設に通って他人とうまい具合にやっていく最低限の術を会得してきたので、下手くそでもそれなりにここまで生きて来られたわけです。

 

正解は、私が他人に興味がない、自分ごとで精一杯で他人に興味を持てないからです。まず前者ですが、実は自分が他人の気持ちに鈍感であり、極端に言えば相手に対して通常モード(興味がない:怒っていない)と非常モード(多分怒っている、なんとかしないといけない)の2極でしか興味を持てない節があります。自分が安全かどうかだけで他人を判断し、親密度とかのパラメータは基本的にないわけです。次に後者ですが、既に別の考え事が溜まっているのに、人間関係のしがらみなどを考えた時に、私は簡単にオーバーフローしてしまうんですね。だから、最近、「あれ?1人の人が同時に友情や愛情をかけられる人数って限界があるんじゃない?」と思いました。

 

よく巷で言う一生に出会って交流する人は30000人とか親友と呼べるような人間は一生に3人しか現れないとか、そんなものです。イギリスの人類学者ロビン・ダンパーは、ダンパー数を提案しました。

ダンバーは、平均的な人間の脳の大きさを計算し、霊長類の結果から推定することによって、人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度であると提案した

ダンバー数 - Wikipedia

彼曰く友達の限界は150人で、毎日親密なコミュニケーションをとっている人になるとその数は十〜数十人程度に減ります。本音を言い合える仲ともなると3~5人しかいないと言われているそうです。

 

結婚した夫が結婚前の友人を失うのは妻が重い女だからではなく妻以外の人に愛情をかけたらオーバーフローするからです。よく「友達100人できるかな」とか言いますが、あれってとんでもないオーバーフロー行為だよなと改めてその恐ろしさに気づきましたね。

 

結局友達はなるべく作らないでいるべきなのです。友達はなろうと思ってなるもんじゃないし、今回けりをつけたり、無意識下で何本もの関わりを断っていったように簡単に人間関係は絶てるもので、むしろ断たないと新しい人間関係をインストールできません。何かを築くためには何かを犠牲にしないといけません。それは人間関係でも変わらないのです。

 

フォロワーや友達の人数が多くても不名誉なんですね。容赦なく切って孤独の時間を楽しまなくてはならないのです。それを実践できるかどうかは別問題ですが。大切な1人や数人といても、絶対1人の時間は必要なのです*5

 

ただし、人間は社会的な生物ですから、人と関わる能力は捨ててはいけません。それを捨てると本当に生活ができなくなります(生涯誰とも話さないならいいのかもしれません)。色々な人の考え方に晒されないと頭が凝り固まります。だからこれからは「友達を作ること」ではなく、広く「人と関わる能力」を伸ばすべきなんだと思います。

 

でもやっぱり興味あるじゃん

でもちゃんと「人に興味がない」ことについて考えを一個完成させてしまったことは、それだけで人に興味があるということの立証になっています。当人は人に興味がないのですが、「人に興味がない自分」に興味を持って変わろうとしているのです。

 

こんな私でも孤独死は嫌なので、「人に興味を持とうとして」、これからの人間関係の構築を頑張って行きたいと思います。「人と関わる能力」、その延長線上に何か見返りがあるかもしれません。それが友情だったり、愛だったりといった特別な状態なんですね。

 

今年の目標の一つは「人に興味を持とうとして」ですね。

*1:特に、人口の多い横浜市では何万の人間を捌く必要があるので必然と言えば必然ですが

*2:人によっては、唯一の意味の

*3:私が田舎で生まれ育って田舎で就職していたら価値観は違っていたと思います

*4:原義=1人での旅行

*5:最近の一人暮らししたい欲はこれが原因だったのか…?